歴史の話の最近のブログ記事


天智天皇が崩御し息子の大友皇子が即位すると、天智天皇の弟であった大海人皇子が皇位を巡り「壬申の乱」を起こす。
大海人皇子の長男である高市皇子はこの戦の最前線に立ち活躍し大海人皇子(天武天皇)側に勝利をもたらす。
 

 
この壬申の乱で悲劇の運命を背負うのが敗れた大友皇子の正妃十市皇女です。万葉集の代表的な歌人額田王と大海人皇子との間に生まれた彼女にとって、この戦は父と夫との戦でもあったのです。敗れた近江側の皇后であり現天皇の皇女でもある立場は辛いものだったに違いありません。
やがて、結婚して子まで儲けた事のある彼女に何故か泊瀬倉梯(はつせくらはし)宮の斎宮(天皇の代わりに神に仕える未婚の皇女)となるよう命が下るのですが、出立するその朝に急死(自殺説もある)してしまいます。
 

 
山振(やまぶき)の 立ちよそひたる山清水
酌(く)みに行かめど 道の知らなく
 
高市皇子(たけちのみこ)が急死した十市皇女(とおちのひめみこ)を悼んだ恋歌ともとれる挽歌です。
二人は天武天皇を父とする異母兄妹ですが、この頃は母親違いの兄妹の恋愛は許されていたようです。
 

 
山吹の「黄」と山清水の「泉」で黄泉、つまり死後の世界を暗示していると解釈されています。
この歌から高市皇子がずっと十市皇女を想っていた事が解りますが、果たして二人の心は通じ合っていたのでしょうか。
 
「黄泉の国に行ってしまったあなたに会いに行きたいけれどどうやって行ったらよいのだろう」
悲しみがひしひしと伝わって来る歌です。
 
 

太井メでした L(^o^ve)




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小谷村には古くから糸魚川と信州内陸との交易路であった「塩の道・千国街道」が通っています。
 

 
小谷(おたり)の語源は麻の生産地を現す「麻垂(おたり)」からではないかと言われるほど麻の生産が盛んで、日本海から塩や海産物を運んだ帰り荷として、漁網としても利用された麻が重要品目の一つに記録されています。
 

 
また小谷の集落上部の日当たりの良い場所には大概広い萱場がありますが、茅葺屋根の補修材料としてもちろん、村の人々は「夏は牛方、冬はボッカ」として「塩の道」の物資運搬にたずさわってきましたので、牛の冬場の餌としても利用され大切にされた場所でした。
 
昔の小谷の山々には萱や麻の刈り干し風景があちこちで見られたに違いありません。
 
 

太井メでした L(^o^ve)




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藤(ふじ)

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マメ科フジ属のツル性落葉木本
 

現在「藤」と言えばフジ棚から長く垂れ下がる紫の花を思い起こすが、古代でのフジはツルの方が大切で有ったに違いない。古墳の石棺に使われている何トンもある巨石を運ぶには、曳綱が必要だったはずで、大量に採取でき丈夫な縄になる物と言えば、藤蔓以外には考えられない。
今でも諏訪神社御柱祭の御柱は、太い藤蔓を縒り合せた曳綱で運ばれている。
 

フジは古来から建築材料としても欠かせないものだった。また古事記には母親が息子の為に、藤葛(ふじかずら)で衣服や弓矢を一夜にして作ったとあり、万葉集でも海人の衣服を藤衣(ふじごろも)と詠んでいる。古くから生活に密着した植物だった事が伺える。
 

万葉集には二十首以上歌われており、風に揺れる花房を「藤波」と表わした歌も多い。また宿や庭に植えられたフジを歌った物もあり、観賞用として栽培され始めたのはこの頃のようだ。
 

平安時代になると観賞の対象として更に高い位置に置かれるようになる。貴族たちによる「藤見の宴」も盛んに行なわれた。平安京の藤棚の庭は藤壺と呼ばれ、源氏物語にも光源氏の理想の女性として藤壺が登場する。花色の紫は高貴のシンボルであり最上の色とされた。
 

この辺りの野生種は「ノダフジ」で右巻に絡み付く。巻き付く様子を真上から見て、時計回りに絡み付くのが右巻。反対に左回りに巻き付くのが「ヤマフジ」で花序はもっと短い。
 

子供の頃には蔓で籠を編んだり、樹皮の内皮を灰で煮て皮を細かく裂き縄を縒った記憶がある。親父の着ていた蓑は、この内皮を編み込んだ防水性の高い物だったような気がする。
最近の山に藤の花が目立つようになったのは、生活の中でこうした藤蔓を利用する事が少なくなり、加えて輸入材の利用増加に伴い森林整備が疎かに成っていった証だろう。


(´・(ェ)・`)~~hutoi




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以前紹介した古い絵葉書の中に八方尾根のケーブルが有りましたのでご紹介。
八方尾根にケーブルが掛かったのが1958年(昭和33年)12月。1983年(昭和58年)に八方尾根ゴンドラリフト「アダム」に架け替えていますので、25年間の活躍でした。葉書のケーブルは塗装の錆びれ具合から、後半期の物のように見えます。
 

八方尾根のケーブル
栂池スキー場の発展は、1948年(昭和23年)に川内下駅(現白馬大池駅)が完成してから始まります。駅が出来ると山岳スキーを楽しむ人が集うようになり、川内地区の民家に宿泊する人達が増えてきました。
やがて川内地区の人達が鐘つき堂地籍(今の鐘の鳴る丘)の萱場を刈り払い「鐘つき堂スキー場」を作りますが、周りにはリフトは勿論宿泊施設もありませんでした。

初めてスキーリフトが掛かったのが1960年(昭和35年)。この絵葉書の発行元の白馬館がロッヂ建設と共に、スキー場経営を開始します。鐘つき堂スキー場は「白馬大池スキー場」と改名されました。

翌々年には白馬観光開発も上部のスキー場開発に参入し「栂池スキー場」と改称されました。栂池ゴンドラリフト「イブ」が栂の森まで完成したのが1982年(昭和57年)。
栂池自然園へのロープウェイが運行を開始したのが1994年(平成6年)でした。
 
八方ケーブルが開設されてから今年が50周年。今シーズンは「ありがとう八方50年」のイベントが各種あるようですね。



(´・(ェ)・`)~~hutoi
 
 先日お亡くなりになったお客様のお土産に、古い絵葉書を頂いた事は紹介しましたが、絵葉書と一緒に古い登山案内が紛れていました。なんと白馬村合併前の北城(ほくじょう)村役場の白馬登山案内書で、戦前のお役所口調が混じっていて興味深い一品です。
 

北城村役場白馬登山案内
「電話北城一番」が手回しの電話を思い起こさせ、字体も旧漢字でなんともレトロ。
案内の略図を見ると、白馬鑓温泉が「白馬温泉」になっています。昔は二股(八方の小日向の湯付近)から鑓温泉へ直接行くルートが有ったんですね。
なんたって距離の一里半が古さを感じます。路線図も神城駅が終点で後は乗合自動車の様ですね。
 

白馬登山のしほり
「しほり」が良い!!
 白馬駅の旧名の信濃四ッ谷駅開業が1932年(昭和07年)。白馬岳(しろうまだけ)が天然記念保存指定地とありますから、1922年(大正11年)以後10年程の間に作られたパンフレットの様です。
標高が二九三三米(2,933m)で、九六七九(尺)苦モナク登ルとあります。単位が尺だと覚え易い標高だったんですね。白馬岳の標高は深田久弥の日本百名山でも2,933mとありますが、現在の地図を見ると2,932mになっています。太井メは昔の高さで覚えていたようです。
白馬温泉は別名「鑓ヶ岳温泉」とあります。標高が七千尺およそ2,100m。
 

白馬スキー場
八方尾根スキー場の歴史を見ると、昭和4年細野山岳スキー倶楽部誕生。昭和6年に黒菱平スキー場開設とありました。このパンフレットの作成年も大分絞られたようです。八方の名木山に木製リフトが出来たのが昭和29年の事ですから、当時はリフトの無い山岳スキー場だったのでしょう。
落倉原スキー場も白馬乗鞍岳の斜面から今の落倉高原までの山岳スキー場。スキーは大正晩年から盛んになり、山岳スキーをする人達も多くなって来ます。
昭和の初期に白馬館が栂池自然園に山小屋営業を開始すると、その近辺は格好の山岳スキー場になりました。昭和14年には自然園上部の天狗原をスタート地点に落倉まで、全長10kmの第一回白馬岳スキー滑走大会が開かれています。このコースが落倉原スキー場でした。もちろんリフトなどの輸送手段は無く、皆スキーを背負い歩いて登ったのです。
戦後昭和25年頃から始まるスキーブームに乗り、人家の一軒もなかった親の原のカヤ場にリフトが掛かり、親の原スキー場(今の鐘の鳴る丘スキー場)として発展すると、次第に落倉原スキー場は忘れ去られて行く事になります。

宿泊料金
登山計画案だとは言え観光案内のパンフレットに、六日コースや八日コースが載っているのが凄いです。それも露営ですからねぇ。安全管理に対しては一言も触れておらず、今時こんなパンフレットを出して、遭難でもされた日にゃ大問題に・・・と言うか、昨今は登山者に対し過保護過ぎるような気がして来ます。
登山小屋の欄を見ると、この頃既に多くの山小屋が経営されて居た事が伺えます。頂上小屋に「暗室の設備有り」と有るのは、山岳写真家の為の現像室の事だろうか?
二食一泊 金壹圓四十銭?? 明治時代の通貨単位のような気がしていたんですが、昭和28年まで通貨の銭が使われていたんですね!!
金カンジキ(多分アイゼンの事)の七十銭は高いように感じますが、当時としては珍しい物だったんでしょうね。薪炭料が「金若干」・・(笑)団体の登山客が増えたのでしょうか、団体割引料金を始めたようです。
しかし漢字とカタカナが混じった横書きの文を、右から左へ読むのって、こんなに読みにくいとは思わなかった (>_<)
 
一つの古い資料の作成年を推測して行くと、けっこう歴史の勉強になります。以外に面白い作業だと感じました。
このパンフレットは恐らく昭和の初期、それも昭和6~7年頃の物ではないかと推測されます。



(´・(ェ)・`)~~hutoi
 
古くからのお客様が数年前脳溢血で倒れられ、大分お悪いようだとは聞いており心配していたのですが、残念ながら先日訃報が届きました。山が 好きで、スキーが好きで、お酒も好きで・・。一緒にスキーをする約束も忙しがって居て、一回しか果たせずに本当に心残りです。
今回は追悼の意を込めて、故人がお土産に探して来てくれた、古い絵葉書を紹介しようと思います。宜しくお付き合いください。


絵葉書の表紙

絵葉書の裏面

「ガラクタ市で見つけた」と嬉しそうに持って来て下さった絵葉書は、山小屋の先駆者「白馬館」の発行です。ケースには購入者が残した「出発 昭32.7.18,帰 昭 32.7.21」のメモが残っております。
発行から50年の著作権保護期間は過ぎているようですが、撮影者の著作権が残っているかも知れません。念 のため「㈱白馬館」様に掲載許可を確認したところ快くご承諾いただきました。ありがとうございました。

昭和32年(1957年)をネットで調べると、南極大陸初上陸、岸内閣の成立、百円硬貨(鳳凰)や五千円札(伊藤博文)の発行。
映画ではアカデ ミー賞の「戦場にかける橋」日本では「喜びも悲しみも幾歳月」。
ヒット曲には石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」先日亡くなったフランク永井の 「有楽町で逢いましょう」。アメリカではエルビス・プレスリーやパット・ブーンがトップ5を独占。
7月生れの有名人に元プロ野球選手の北別府投手、篠塚選手、芸能人では大竹しのぶ。
前年の冬季オリンピックで優勝したオーストリアのトニーザイラーが初来日しています。
近郊では 昭和31年10月から北城村と神城村が合併して白馬村に、33年12月には八方尾根にケーブルが掛かりました。

ラジオでは「赤胴鈴の助」の連続放送「♪ 剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 ♪」 なんで覚えているんだろう??(^^;)



「四ツ谷より見る白馬連峯」
絵葉書のタイトルにある連峰の字に「峯」の字が当てられています。この頃はまだ白馬駅が四ツ谷駅 と呼ばれていたんですねぇ。
写真の風景は白馬村の深空(ふかそら)辺りかな?と思いますが、今でもこんな風景が残っていたらカメラマンが殺到したことでし ょう。


「白馬岳より見る立山連峯の雄姿」
画像では分かり難いですが、白馬岳山頂からの絵葉書では、中央の丸山手前にある村営宿舎がまだ石積みで、奥のキャンプ場も出来ていません!!
赤い屋根は白馬館の白馬山荘。1959年に火災で1棟を残し全焼したと記録に有りますので、焼失する以前の山小屋ですね。


「白雲を浮かべる白馬大池」
太井メが一番気に入ったのが「白雲を浮かべる白馬大池」の絵葉書。ここまでボートを担ぎ上げたに 違いありませんが、当時の登山者たちの大らかさと冒険心が感じられます。
もしかして池の中央にあった鳥居が残っていた時代かもしれません。 それが写っていたら、かなり貴重な写真なのにと残念です。


「日本最高度の白馬鑓温泉露天風呂」

タイトルに「日本最高度」とありますが、立山や八ヶ岳にもっと標高の高い温泉がある事が知られてから、今では日本一高いと言う表現はされてい ません。山小屋もなくまだ湯船がコンクリで無い時代の、これも貴重な写真です。
今はもっと敷地が広げられ、組み立て式の山小屋(冬は解体さ れる)と、確か女子風呂が囲われて有ったと記憶しますが、露天風呂は混浴でした。標高2100mの岩の割れ目からコンコンと湧き出るお湯に浸かりな がら、雲海から登るご来光を眺めた記憶が蘇ります。正に自然の驚異でした。

懐かしく思って見てくれた方は居たでしょうか?
故人もきっと懐かしがってくれている事と思います

改めて、謹んでご冥福をお祈りいたします

まだ貴重な絵葉書やパンフレットを戴いてますので
次回ご紹介いたします




(´・(ェ)・`)~~hutoi

北小谷から三坂峠を越えて来る塩の道コースの終盤で
大網からの道路と交差する辺りが「長者平」に当ります
戦国時代には70軒ほどの大集落で賑ったそうですが
武田の軍勢により全戸焼き払われてしまったそうです
当時を偲ばせるものは何も残っては居りませんでした



双耳峰だった雨飾山
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双耳峰だった雨飾山

今回歩く塩の道古道の入り口「長者平」から見る雨飾山は
小谷温泉側から見る山容とは一変し双耳峰だと知れます
自慢ですが低い方が新潟県、高い方が長野県側です(^^;)V



信越国境の山並(左端が明星山)
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信越国境の山並(左端が明星山)

長者平から信越国境の山並が一望できました
目的の鳥越峠は三峰の右側の裾野だとのこと
・・・遠いな~~・・・ ^ ^;;
因みに左の戸倉山の左裾が大網峠だそうです
太陽が上に来てなかなか好い色が出せません



熊が噛んだ道標 w(☆o◎)w
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熊が噛んだ道標 w(☆o◎)w

写真を撮っていて少し遅れてしまいましたが
スタート早々で塩の道の道標に削られた跡が
山奥に来てまで悪い事をする奴がいるもんだ

「塗料成分に魚の骨粉が入ってるらしいですよ」
「ガイドさんが先日来た時には無かったんだって」
「爪痕じゃなくて噛んだ跡だって言ってました」
なにやら穏やからしからぬ会話をしております

チョット待てよ??ってことは((((o((;=゚ェ゚=))oヒェ~~

熊の痕跡に怯えながら一目散に下ると横川集落跡でした


紅葉の横川の岩山
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紅葉の横川の岩山

ここも武田勢との戦で焼かれ年々戸数が減り続け
数年前まで頑張って住んでいた最後の一軒は
地滑りで家が傾き今は誰も住んでは居りません
路傍の石仏が栄枯盛衰を儚んでいるようです

詳しくは女将が紹介していますのでどうぞ

日記をブログ形式に変えようと日夜奮闘中でありますが
使った事の無い「XHTML」なる言語がチンプンカンプンで
カテゴリーやらタグやらの仕分けがいまいち理解できず
冬のプランも待ってるし完成は何時になる事やら(*´ο`*)=3

女将は先を楽しんでいる様子

PS: 前出の名無しの大滝の名前が判明いたしました
「滝倉沢の大滝」塩の道HPに紹介されています


(´・(ェ)・`)~~hutoi

 

鳥越峠コースの入口までマイクロバスで送って頂きましたが
途中で塩の荷継ぎ場として賑った大網集落に立ち寄りました
新潟県に抜ける塩の道の大網峠越えコースの入口に当ります



大網峠入口の六地蔵
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大網峠入口の六地蔵

江戸時代中期になると新潟米を運んだ帰り舟で
瀬戸内海から良質の塩が安価で入るようになり
塩の道・千国街道は大いに賑うようになります
糸魚川港に入った塩は松本平へと運ばれますが
まずは国境の大網で塩荷を改める決まりでした
荷宿へは塩一俵三文の上前を払ったのだそうで
塩二表を一駄と数え八千駄を超えた記録も残り
当時はかなり裕福な集落だったに違いありません



苔生す石仏群
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苔生す石仏群

当時の繁栄を表すかの様に集落の周りには供養塔が多く
苔生した石仏群には先人達の信仰の深さが感じられます

天台密教では六道の中の「畜生道」を教化する観音様が
馬頭観世音菩薩で煩悩や悪心を断つ功徳があるそうです
お寺に安置されている馬頭観音は多顔で八本の腕を持ち
頭上には馬の頭が置かれ容姿は怒りの姿を現しています
その姿や馬頭の名前からやがて民間信仰の中に溶け込み
馬の供養や安全祈願で建られる様になったのだそうです
街道の馬頭観音の多さに危険な道だったことが伺えます



雨飾山を背景に 
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雨飾山を背景に

「雨飾山」の麓にある大網集落には古い伝承や言い伝えが多く
毎年2月の第二土曜日に行われる「大網火祭り」はその代表で
雨飾山の神に一年間の五穀豊穣や安全を祈願するお祭りです



大網諏訪神社の欅の大木
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大網諏訪神社の欅の大木

大網(おあみ)は「おおあみ:うあみ」などの呼称があり
古代の峠の神を拝む場所(拝み)だと言う説があります
また奴奈川姫が諏訪大社の祭神「建御名方命」を産む時に
産屋の周りに大きな網を張り巡らせたので
「大網」と呼ぶようになったとの説もあります

大網諏訪神社が古宮諏訪神社とも称され
古い歴史や伝統の交差した集落の様です


女将はまだ大網を楽しんでいる様子



(´・(ェ)・`)~~hutoi
 

蕎麦(そば)の花

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タデ科ソバ属の一年草

 縄文遺跡からソバの花粉が確認されているというから、中央アジア原産のソバが日本に渡ったのは意外に古い、古名は実に稜がある事から稜麦(そばむぎ)と呼ばれ、奈良時代には救荒作物として栽培が推奨されたそうです。

 村内でも最近休耕田の有効活用にソバが推奨され、今年から栂池高原の外れにも作付される様になりました。良質なそば粉を「霧下蕎麦」と表されますが、ソバには朝霧の情景が実に良く似合います。


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「信濃では月と仏とおらが蕎麦」

 小林一茶が鼻高々に歌っていますが、確かに信濃では信州ソバが自慢です ^^ 精白したソバ粉を更科(さらしな)と言いますし、最近合併された更級(さらしな)郡や戸隠は、古くからソバの名産地で知られていました。江戸時代に更科の屋号を持つ蕎麦屋もあり、信州人にとっては所縁の深い食べ物ですね。

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白馬三山をバックに白いソバ畑を狙ったのですが
どのアングルにも鉄塔が入り邪魔します (>_<)

〇〇君ちも無い方が・・・壁|彡サッ! ヾ(・・;)ォィォィ




(´・(ェ)・`)~~hutoi

新月から7日目頃になった「上弦の月だったっけ~~久しぶりだねぇ~~♪」の月は半円形。光っている右側半分を弓の形に見立て、弦に当たる部分が左上になって見えるからですね。反対に弦が右下を向く形になるのが下弦の月。半月をこんな風に呼び分ける日本人の感性を誇りに思います。
 

お地蔵様と三十三夜塔
 
下弦の月は23日目頃の月で二十三夜(にじゅうさんや)と呼ばれます。この夜は女性たちが集まり、夜中の0時頃に出る月を待つ風習がありました。この辺では三夜待ちとも呼ばれ、庚申講のように三夜講を立てて集ったようです。今でも村外れに建つ二十三夜の石塔を見ることができます。今の旦那達にして見たらこの風習が廃れて、不幸中の幸いだったかも---( ゚∀゚)y-~~~
 
昔人は満月に僅かに満たない形の月をも愛でる、情緒豊かな人たちでした。特に中秋の名月と合わせ「二夜の月(ふたよのつき)」と言われた秋の十三夜月(じゅうさんやづき)は、栗名月(くりめいげつ)とか豆名月(まめめいげつ)とも呼ばれ、中秋の名月を祝った後の月(後の月見)として、見逃すことは忌むこととされていたようです。
 
ちなみに30日目頃の見えなくなる瞬間の月が
三十日月(みそかづき)
だから月の最後の日を「みそか」と言います
年の最後の日はもちろん大晦日ですよね



(´・(ェ)・`)~~hutoi

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