歴史の話の最近のブログ記事
最近の山に藤の花が目立つようになったのは、生活の中でこうした藤蔓を利用する事が少なくなり、加えて輸入材の利用増加に伴い森林整備が疎かに成っていった証だろう。
八方尾根にケーブルが掛かったのが1958年(昭和33年)12月。1983年(昭和58年)に八方尾根ゴンドラリフト「アダム」に架け替えていますので、25年間の活躍でした。葉書のケーブルは塗装の錆びれ具合から、後半期の物のように見えます。
やがて川内地区の人達が鐘つき堂地籍(今の鐘の鳴る丘)の萱場を刈り払い「鐘つき堂スキー場」を作りますが、周りにはリフトは勿論宿泊施設もありませんでした。
栂池自然園へのロープウェイが運行を開始したのが1994年(平成6年)でした。
案内の略図を見ると、白馬鑓温泉が「白馬温泉」になっています。昔は二股(八方の小日向の湯付近)から鑓温泉へ直接行くルートが有ったんですね。
なんたって距離の一里半が古さを感じます。路線図も神城駅が終点で後は乗合自動車の様ですね。
白馬駅の旧名の信濃四ッ谷駅開業が1932年(昭和07年)。白馬岳(しろうまだけ)が天然記念保存指定地とありますから、1922年(大正11年)以後10年程の間に作られたパンフレットの様です。
標高が二九三三米(2,933m)で、九六七九(尺)苦モナク登ルとあります。単位が尺だと覚え易い標高だったんですね。白馬岳の標高は深田久弥の日本百名山でも2,933mとありますが、現在の地図を見ると2,932mになっています。太井メは昔の高さで覚えていたようです。
白馬温泉は別名「鑓ヶ岳温泉」とあります。標高が七千尺およそ2,100m。
落倉原スキー場も白馬乗鞍岳の斜面から今の落倉高原までの山岳スキー場。スキーは大正晩年から盛んになり、山岳スキーをする人達も多くなって来ます。
昭和の初期に白馬館が栂池自然園に山小屋営業を開始すると、その近辺は格好の山岳スキー場になりました。昭和14年には自然園上部の天狗原をスタート地点に落倉まで、全長10kmの第一回白馬岳スキー滑走大会が開かれています。このコースが落倉原スキー場でした。もちろんリフトなどの輸送手段は無く、皆スキーを背負い歩いて登ったのです。
戦後昭和25年頃から始まるスキーブームに乗り、人家の一軒もなかった親の原のカヤ場にリフトが掛かり、親の原スキー場(今の鐘の鳴る丘スキー場)として発展すると、次第に落倉原スキー場は忘れ去られて行く事になります。
登山小屋の欄を見ると、この頃既に多くの山小屋が経営されて居た事が伺えます。頂上小屋に「暗室の設備有り」と有るのは、山岳写真家の為の現像室の事だろうか?
二食一泊 金壹圓四十銭?? 明治時代の通貨単位のような気がしていたんですが、昭和28年まで通貨の銭が使われていたんですね!!
金カンジキ(多分アイゼンの事)の七十銭は高いように感じますが、当時としては珍しい物だったんでしょうね。薪炭料が「金若干」・・(笑)団体の登山客が増えたのでしょうか、団体割引料金を始めたようです。
しかし漢字とカタカナが混じった横書きの文を、右から左へ読むのって、こんなに読みにくいとは思わなかった (>_<)
このパンフレットは恐らく昭和の初期、それも昭和6~7年頃の物ではないかと推測されます。
今回は追悼の意を込めて、故人がお土産に探して来てくれた、古い絵葉書を紹介しようと思います。宜しくお付き合いください。
「ガラクタ市で見つけた」と嬉しそうに持って来て下さった絵葉書は、山小屋の先駆者「白馬館」の発行です。ケースには購入者が残した「出発 昭32.7.18,帰 昭 32.7.21」のメモが残っております。
発行から50年の著作権保護期間は過ぎているようですが、撮影者の著作権が残っているかも知れません。念 のため「㈱白馬館」様に掲載許可を確認したところ快くご承諾いただきました。ありがとうございました。
昭和32年(1957年)をネットで調べると、南極大陸初上陸、岸内閣の成立、百円硬貨(鳳凰)や五千円札(伊藤博文)の発行。
映画ではアカデ ミー賞の「戦場にかける橋」日本では「喜びも悲しみも幾歳月」。
ヒット曲には石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」先日亡くなったフランク永井の 「有楽町で逢いましょう」。アメリカではエルビス・プレスリーやパット・ブーンがトップ5を独占。
7月生れの有名人に元プロ野球選手の北別府投手、篠塚選手、芸能人では大竹しのぶ。
前年の冬季オリンピックで優勝したオーストリアのトニーザイラーが初来日しています。
近郊では 昭和31年10月から北城村と神城村が合併して白馬村に、33年12月には八方尾根にケーブルが掛かりました。
ラジオでは「赤胴鈴の助」の連続放送「♪ 剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 ♪」 なんで覚えているんだろう??(^^;)
写真の風景は白馬村の深空(ふかそら)辺りかな?と思いますが、今でもこんな風景が残っていたらカメラマンが殺到したことでし ょう。
赤い屋根は白馬館の白馬山荘。1959年に火災で1棟を残し全焼したと記録に有りますので、焼失する以前の山小屋ですね。
もしかして池の中央にあった鳥居が残っていた時代かもしれません。 それが写っていたら、かなり貴重な写真なのにと残念です。
タイトルに「日本最高度」とありますが、立山や八ヶ岳にもっと標高の高い温泉がある事が知られてから、今では日本一高いと言う表現はされてい ません。山小屋もなくまだ湯船がコンクリで無い時代の、これも貴重な写真です。
今はもっと敷地が広げられ、組み立て式の山小屋(冬は解体さ れる)と、確か女子風呂が囲われて有ったと記憶しますが、露天風呂は混浴でした。標高2100mの岩の割れ目からコンコンと湧き出るお湯に浸かりな がら、雲海から登るご来光を眺めた記憶が蘇ります。正に自然の驚異でした。
懐かしく思って見てくれた方は居たでしょうか?
故人もきっと懐かしがってくれている事と思います
改めて、謹んでご冥福をお祈りいたします
まだ貴重な絵葉書やパンフレットを戴いてますので
次回ご紹介いたします
北小谷から三坂峠を越えて来る塩の道コースの終盤で
大網からの道路と交差する辺りが「長者平」に当ります
戦国時代には70軒ほどの大集落で賑ったそうですが
武田の軍勢により全戸焼き払われてしまったそうです
当時を偲ばせるものは何も残っては居りませんでした
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双耳峰だった雨飾山
今回歩く塩の道古道の入り口「長者平」から見る雨飾山は
小谷温泉側から見る山容とは一変し双耳峰だと知れます
自慢ですが低い方が新潟県、高い方が長野県側です(^^;)V
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信越国境の山並(左端が明星山)
長者平から信越国境の山並が一望できました
目的の鳥越峠は三峰の右側の裾野だとのこと
・・・遠いな~~・・・ ^ ^;;
因みに左の戸倉山の左裾が大網峠だそうです
太陽が上に来てなかなか好い色が出せません
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熊が噛んだ道標 w(☆o◎)w
写真を撮っていて少し遅れてしまいましたが
スタート早々で塩の道の道標に削られた跡が
山奥に来てまで悪い事をする奴がいるもんだ
「塗料成分に魚の骨粉が入ってるらしいですよ」
「ガイドさんが先日来た時には無かったんだって」
「爪痕じゃなくて噛んだ跡だって言ってました」
なにやら穏やからしからぬ会話をしております
チョット待てよ??ってことは((((o((;=゚ェ゚=))oヒェ~~
熊の痕跡に怯えながら一目散に下ると横川集落跡でした
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紅葉の横川の岩山
ここも武田勢との戦で焼かれ年々戸数が減り続け
数年前まで頑張って住んでいた最後の一軒は
地滑りで家が傾き今は誰も住んでは居りません
路傍の石仏が栄枯盛衰を儚んでいるようです
詳しくは女将が紹介していますのでどうぞ
日記をブログ形式に変えようと日夜奮闘中でありますが
使った事の無い「XHTML」なる言語がチンプンカンプンで
カテゴリーやらタグやらの仕分けがいまいち理解できず
冬のプランも待ってるし完成は何時になる事やら(*´ο`*)=3
女将は先を楽しんでいる様子
PS: 前出の名無しの大滝の名前が判明いたしました
「滝倉沢の大滝」と塩の道HPに紹介されています
(´・(ェ)・`)~~hutoi
鳥越峠コースの入口までマイクロバスで送って頂きましたが
途中で塩の荷継ぎ場として賑った大網集落に立ち寄りました
新潟県に抜ける塩の道の大網峠越えコースの入口に当ります
大網峠入口の六地蔵
江戸時代中期になると新潟米を運んだ帰り舟で
瀬戸内海から良質の塩が安価で入るようになり
塩の道・千国街道は大いに賑うようになります
糸魚川港に入った塩は松本平へと運ばれますが
まずは国境の大網で塩荷を改める決まりでした
荷宿へは塩一俵三文の上前を払ったのだそうで
塩二表を一駄と数え八千駄を超えた記録も残り
当時はかなり裕福な集落だったに違いありません
当時の繁栄を表すかの様に集落の周りには供養塔が多く
苔生した石仏群には先人達の信仰の深さが感じられます
天台密教では六道の中の「畜生道」を教化する観音様が
馬頭観世音菩薩で煩悩や悪心を断つ功徳があるそうです
お寺に安置されている馬頭観音は多顔で八本の腕を持ち
頭上には馬の頭が置かれ容姿は怒りの姿を現しています
その姿や馬頭の名前からやがて民間信仰の中に溶け込み
馬の供養や安全祈願で建られる様になったのだそうです
街道の馬頭観音の多さに危険な道だったことが伺えます
雨飾山を背景に
「雨飾山」の麓にある大網集落には古い伝承や言い伝えが多く
毎年2月の第二土曜日に行われる「大網火祭り」はその代表で
雨飾山の神に一年間の五穀豊穣や安全を祈願するお祭りです
大網諏訪神社の欅の大木
大網(おあみ)は「おおあみ:うあみ」などの呼称があり
古代の峠の神を拝む場所(拝み)だと言う説があります
また奴奈川姫が諏訪大社の祭神「建御名方命」を産む時に
産屋の周りに大きな網を張り巡らせたので
「大網」と呼ぶようになったとの説もあります
大網諏訪神社が古宮諏訪神社とも称され
古い歴史や伝統の交差した集落の様です
女将はまだ大網を楽しんでいる様子
(´・(ェ)・`)~~hutoi
村内でも最近休耕田の有効活用にソバが推奨され、今年から栂池高原の外れにも作付される様になりました。良質なそば粉を「霧下蕎麦」と表されますが、ソバには朝霧の情景が実に良く似合います。
三十日月(みそかづき)
だから月の最後の日を「みそか」と言います
年の最後の日はもちろん大晦日ですよね





















