登山の最近のブログ記事
最近このような紛らわしい言葉の使い回しに迷う時が暫しある。っと書いた矢先から、この場合「遣い回し」と書くんだっけ?と疑問が湧く。老化現象だろうなぁ。
里ごころがついたロクさんとももう直ぐお別れです。
案内の略図を見ると、白馬鑓温泉が「白馬温泉」になっています。昔は二股(八方の小日向の湯付近)から鑓温泉へ直接行くルートが有ったんですね。
なんたって距離の一里半が古さを感じます。路線図も神城駅が終点で後は乗合自動車の様ですね。
白馬駅の旧名の信濃四ッ谷駅開業が1932年(昭和07年)。白馬岳(しろうまだけ)が天然記念保存指定地とありますから、1922年(大正11年)以後10年程の間に作られたパンフレットの様です。
標高が二九三三米(2,933m)で、九六七九(尺)苦モナク登ルとあります。単位が尺だと覚え易い標高だったんですね。白馬岳の標高は深田久弥の日本百名山でも2,933mとありますが、現在の地図を見ると2,932mになっています。太井メは昔の高さで覚えていたようです。
白馬温泉は別名「鑓ヶ岳温泉」とあります。標高が七千尺およそ2,100m。
落倉原スキー場も白馬乗鞍岳の斜面から今の落倉高原までの山岳スキー場。スキーは大正晩年から盛んになり、山岳スキーをする人達も多くなって来ます。
昭和の初期に白馬館が栂池自然園に山小屋営業を開始すると、その近辺は格好の山岳スキー場になりました。昭和14年には自然園上部の天狗原をスタート地点に落倉まで、全長10kmの第一回白馬岳スキー滑走大会が開かれています。このコースが落倉原スキー場でした。もちろんリフトなどの輸送手段は無く、皆スキーを背負い歩いて登ったのです。
戦後昭和25年頃から始まるスキーブームに乗り、人家の一軒もなかった親の原のカヤ場にリフトが掛かり、親の原スキー場(今の鐘の鳴る丘スキー場)として発展すると、次第に落倉原スキー場は忘れ去られて行く事になります。
登山小屋の欄を見ると、この頃既に多くの山小屋が経営されて居た事が伺えます。頂上小屋に「暗室の設備有り」と有るのは、山岳写真家の為の現像室の事だろうか?
二食一泊 金壹圓四十銭?? 明治時代の通貨単位のような気がしていたんですが、昭和28年まで通貨の銭が使われていたんですね!!
金カンジキ(多分アイゼンの事)の七十銭は高いように感じますが、当時としては珍しい物だったんでしょうね。薪炭料が「金若干」・・(笑)団体の登山客が増えたのでしょうか、団体割引料金を始めたようです。
しかし漢字とカタカナが混じった横書きの文を、右から左へ読むのって、こんなに読みにくいとは思わなかった (>_<)
このパンフレットは恐らく昭和の初期、それも昭和6~7年頃の物ではないかと推測されます。
今回は追悼の意を込めて、故人がお土産に探して来てくれた、古い絵葉書を紹介しようと思います。宜しくお付き合いください。
「ガラクタ市で見つけた」と嬉しそうに持って来て下さった絵葉書は、山小屋の先駆者「白馬館」の発行です。ケースには購入者が残した「出発 昭32.7.18,帰 昭 32.7.21」のメモが残っております。
発行から50年の著作権保護期間は過ぎているようですが、撮影者の著作権が残っているかも知れません。念 のため「㈱白馬館」様に掲載許可を確認したところ快くご承諾いただきました。ありがとうございました。
昭和32年(1957年)をネットで調べると、南極大陸初上陸、岸内閣の成立、百円硬貨(鳳凰)や五千円札(伊藤博文)の発行。
映画ではアカデ ミー賞の「戦場にかける橋」日本では「喜びも悲しみも幾歳月」。
ヒット曲には石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」先日亡くなったフランク永井の 「有楽町で逢いましょう」。アメリカではエルビス・プレスリーやパット・ブーンがトップ5を独占。
7月生れの有名人に元プロ野球選手の北別府投手、篠塚選手、芸能人では大竹しのぶ。
前年の冬季オリンピックで優勝したオーストリアのトニーザイラーが初来日しています。
近郊では 昭和31年10月から北城村と神城村が合併して白馬村に、33年12月には八方尾根にケーブルが掛かりました。
ラジオでは「赤胴鈴の助」の連続放送「♪ 剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 ♪」 なんで覚えているんだろう??(^^;)
写真の風景は白馬村の深空(ふかそら)辺りかな?と思いますが、今でもこんな風景が残っていたらカメラマンが殺到したことでし ょう。
赤い屋根は白馬館の白馬山荘。1959年に火災で1棟を残し全焼したと記録に有りますので、焼失する以前の山小屋ですね。
もしかして池の中央にあった鳥居が残っていた時代かもしれません。 それが写っていたら、かなり貴重な写真なのにと残念です。
タイトルに「日本最高度」とありますが、立山や八ヶ岳にもっと標高の高い温泉がある事が知られてから、今では日本一高いと言う表現はされてい ません。山小屋もなくまだ湯船がコンクリで無い時代の、これも貴重な写真です。
今はもっと敷地が広げられ、組み立て式の山小屋(冬は解体さ れる)と、確か女子風呂が囲われて有ったと記憶しますが、露天風呂は混浴でした。標高2100mの岩の割れ目からコンコンと湧き出るお湯に浸かりな がら、雲海から登るご来光を眺めた記憶が蘇ります。正に自然の驚異でした。
懐かしく思って見てくれた方は居たでしょうか?
故人もきっと懐かしがってくれている事と思います
改めて、謹んでご冥福をお祈りいたします
まだ貴重な絵葉書やパンフレットを戴いてますので
次回ご紹介いたします
特にシモツケソウがハイマツの下から生えている写真は八方尾根でしか撮れないでしょうね。
最初のは昭和12年に建てられた八方池近くの第三ケルン(2,080m)。銀婚式の記念だそうな。最初に遭難者の慰霊碑として建てられたのは息(やすむ)ケルンの別名を持つ第二ケルン(2,005m)。大阪の西阪息さんの父親らによって昭和13年に第一ケルン(1,830m)ともにに建立された。
もちろんお泊りは当ホテルで!!!
20世紀最後の冬季オリンピック長野大会(1998年)のスキー競技会場だった所です。ジャンプ団体戦の日の丸の旗が今でも鮮明に記憶に残っています。
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6人乗りゴンドラと2本の4人掛けリフトを乗り継いで約30分、第一ケルン(1,831m)横の八方池山荘に着きます。リフトは背の高い植物を足で触れるほど低いので恐怖感はあまりありません。かえって、花を間近で見ることができるので楽しいくらいです。今回はシモツケソウが一面に咲いていて、まるでピンクのジュウタンの上を滑っているようでした。 |
![]() リフト線下のシモツケソウ |
明日は八方尾根特有の植物をご紹介します。






































