歳を経ると共に時の過ぎるのが早く感ぜられ、来年はもっとユッタリと過ごそうと毎年思う大晦日です。
「女郎の誠と玉子の四角 あれば晦日に月も出る」
有るはずの無い事を例えた川柳ですが、商売柄ゆったりと過ごせる年末年始はまだまだお預けです。
白馬連峰の南端にある鹿島槍ヶ岳(2,889m)は、五竜遠見尾根越しにポカリと浮かび、まるで人の手によって作られたかの様な、見事に左右対称な双耳峰です。この特徴ある山の形は一度見ると忘れられないでしょう。深田久弥の日本百名山にも「大好きで粋な山」だと紹介されています。
昭和初期の登山ブームでは大人気で、鹿島槍北峰の北壁は多くのクライマー達を惹きつけ、アルピニズムの開花の舞台となりました。特に山岳部の積雪期初登はん争いは熾烈で、登山史に「北壁時代」と云われる一時代を築きました。
白馬連峰は長野県側が急激に落ち込み、富山側が比較的緩い斜面になっており「非対称山稜」と言われています。特に白馬三山と鹿島槍ヶ岳付近が顕著で、積雪量も多く、雪崩による大量遭難が多かった場所でもあります。
鹿島槍ヶ岳ほどさまざまな名前が付けられていた山も珍しいかも知れません。江戸時代、加賀藩の奥山廻りの絵図には、富山県側の立山の真後ろに当る山で「後立山(ごりゅうさん)」と記入されています。同時代長野県側では「ケンノフガ岳」「ケンノフ岳」などと呼ばれていました。明治の初めには「隠里(かくねざと)岳」「乗鞍岳」「布引岳」などとされ、雪形から「しし岳」「鶴ヶ岳」さらに面白いのは双耳峰が高さを競っているように見えたのか「背比べ岳」とも呼ばれています。(信濃毎日新聞社編集局編「北アルプス」より)
鹿島槍ヶ岳の呼称は、室町時代に地震で大崩落がおこり、地震の神様の鹿島明神を祭ったことに由来するとされ、南の槍ヶ岳に対し「鹿島の槍」の意味で名付けられたとの説があり、麓の鹿島集落の名から採ったもののようです。この集落は平家の落人伝説が残り、その奥の鹿島槍北壁の麓には隠里(かくねざと)と言う地名が残っています。
「ガラクタ市で見つけた」と嬉しそうに持って来て下さった絵葉書は、山小屋の先駆者「白馬館」の発行です。ケースには購入者が残した「出発 昭32.7.18,帰 昭 32.7.21」のメモが残っております。
発行から50年の著作権保護期間は過ぎているようですが、撮影者の著作権が残っているかも知れません。念 のため「㈱白馬館」様に掲載許可を確認したところ快くご承諾いただきました。ありがとうございました。
昭和32年(1957年)をネットで調べると、南極大陸初上陸、岸内閣の成立、百円硬貨(鳳凰)や五千円札(伊藤博文)の発行。
映画ではアカデ ミー賞の「戦場にかける橋」日本では「喜びも悲しみも幾歳月」。
ヒット曲には石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」先日亡くなったフランク永井の 「有楽町で逢いましょう」。アメリカではエルビス・プレスリーやパット・ブーンがトップ5を独占。
7月生れの有名人に元プロ野球選手の北別府投手、篠塚選手、芸能人では大竹しのぶ。
前年の冬季オリンピックで優勝したオーストリアのトニーザイラーが初来日しています。
近郊では 昭和31年10月から北城村と神城村が合併して白馬村に、33年12月には八方尾根にケーブルが掛かりました。
ラジオでは「赤胴鈴の助」の連続放送「♪ 剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士 ♪」 なんで覚えているんだろう??(^^;)
タイトルに「日本最高度」とありますが、立山や八ヶ岳にもっと標高の高い温泉がある事が知られてから、今では日本一高いと言う表現はされてい ません。山小屋もなくまだ湯船がコンクリで無い時代の、これも貴重な写真です。
今はもっと敷地が広げられ、組み立て式の山小屋(冬は解体さ れる)と、確か女子風呂が囲われて有ったと記憶しますが、露天風呂は混浴でした。標高2100mの岩の割れ目からコンコンと湧き出るお湯に浸かりな がら、雲海から登るご来光を眺めた記憶が蘇ります。正に自然の驚異でした。
懐かしく思って見てくれた方は居たでしょうか?
故人もきっと懐かしがってくれている事と思います
改めて、謹んでご冥福をお祈りいたします
まだ貴重な絵葉書やパンフレットを戴いてますので
次回ご紹介いたします